その昔、労働から解放されていた貴族たちは、
スポーツという娯楽を生み出してそれを「崇高な行為」と位置づけました。
そして、
「崇高なスポーツをする自分たちは、生まれながらにして価値ある特別な存在なのだ」
と主張していました。
ところが、やがて庶民の中からスポーツで生計を立てる人たちが現れます。
すると彼らのことは、
「崇高なスポーツを金儲けの道具に利用する卑しい人々」と蔑みました。
その昔、労働から解放されていた貴婦人たちはセックスを、
夫婦間で愛を確かめ合う「崇高な行為」と位置づけました。
そして
「崇高なセックスをする自分たちは、崇高な愛を手に入れた尊い存在なのだ」
と主張していました。
一方では、セックスで生計を立てる女性も居たのですが、彼女たちのことは
「崇高なセックスを金儲けの道具に利用する卑しい人々」と蔑みました。
「崇高」とか「神聖」とかって言葉、自分たちを権威づけたい人たち、
特権を正当化して胡坐をかきたい人たちにとって、
便利な言葉なんでしょうね。
そしてそんな古びた権威の残滓を根絶やしにするのは、
反権威を声高に唱える人たちでは無くて、
偏見に負けず黙々と目の前の現実に向き合いながら、
ひたむきな姿で感動を生み出していく人たちなのかもしれませんね。